MYITTAの工房

日々のくらしや手作り、ときどきミャンマー

カテゴリ: 旅の思い出

イタリアはミラノに住んでいた頃、よく中国人と間違えられました。いえ、正確にはイタリアだけでなく、他の国でもあまり日本人と認識されなかったような記憶があり、いつも不思議に思っていたのです。
通りがかりの同胞と間違えられて中国語呼びかけられたことも、一度や二度ではありませんでした。

顔や丸くて目も丸いからなのか、服装が日本人らしく(きっちり)していないという見かけの問題からなのか。はたまた、一人で行動していることが多く、遠慮がちとは程遠い言動からだったのか・・・。
当時、海外では日本人はお金持ちの旅行客のイメージがあったので、日本人と思われないことは、スリに逢いにくいとか、値段を吹っ掛けられないなどのメリットもありました。

それから何年も経ってから、ミャンマー人と結婚し、ミャンマーに旅をしたり住んだりするようになると、そこでも私は中国人かミャンマー人と間違えられることが多くなりました。しゃべらなければ日本人だと思われないよ、とありがたいのかどうかよくわからないことを言われることさえありました。

外国人料金設定の多いミャンマーですが、中国系の住人は多いので、中国人かミャンマー人に見られると、どこに行っても外国人料金を課されないというメリットがありました。

だから長い間、そうか、私は中国人っぽく見えてラッキー♪くらいに思っていたのです。

ところが、先日、ヤマザキマリさんの本を読んでいて気づいたことがありました。

20年くらい前から北イタリアには中国人がたくさん入ってきていて、多くの企業が表面的には見えなくとも社長は中国人、という状況が静かに進行していたらしいのです。気づくと、イタリア行きの飛行機のファーストクラスはほとんど中国人だったそうで、イタリアと中国の関係は、人材も経済的にも切り離せないものになっていたとのこと。新型コロナウィルスが早くからイタリアで感染拡大したのも、そういった人の流れと無縁ではないだろうというのです。
20年前といえば、私がイタリアに留学していたころです。

そして、中国人の進出といえば、ミャンマーではとっくの昔から有名です。ミャンマーでは町中に、目に見えて中国が根付いています。

つまり、中国人の人口が多いのです。だから私が中国人に見られたのは、その辺を歩いてるビルマ族っぽくない人は、たいがい中国人だったからなのでしょう。

イタリアで中国人に見られたのも、中国人からよく話しかけられたのも、私のルックスのどこが中国人っぽいというより、アジア人が目立つ環境で、多数派のアジア人といえば中国人だったということです。

長年のナゾが解けました。そして改めて中国の圧倒的な存在感にも身をもって気づかされたのでした。

ミャンマー軍の突然のクーデター。
日本や世界の国々が多少の制裁に舵を切ったところで、中国が黙認している限り、何の効果もないのでしょう。



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以前お世話になった方から、リタイヤ後、イタリアはミラノ住まいになった由、絵葉書をいただきました。

ミラノには私が留学した頃の思い出がたくさんあり、忘れかけていたシーンがぐるぐると蘇ります。

その後、仕事でいろんな国のいろんな方や考え方と出会い、ミャンマー人の今の夫とも出会い、当時進むつもりでいた道は諦め、専業主婦を経て家庭優先にしながらの仕事を模索したり、ミャンマー暮らしの現実を経験したり。

いろいろありすぎて今ではずいぶんと遠くなってしまいましたが、やっぱりイタリアはどうしても特別で、まるで古き良き子供時代のようなノスタルジーの世界なのです。

なぜこんなに違う方向に来てしまったんだっけ?都合の悪いことは忘れる主義ではありますが、当然ながら、消化しきれずにフタをして背負っていることは多々あります。

成り行きまかせに近い自分史に困惑していた時、ある雑誌の表紙に書かれていた言葉が目に止まりました。

『人生って、旅のようなもの』

まさに。確かに。
初めて聞いた言葉ではないけれど、今初めて自分に響きました。

道は一本だけなわけではなく、あちこちに通じていて、どこを通っても、進んでも立ち止まっても、時には引き返したって無駄ではないと思ったら、少し肩の荷がおりた気がしました。

今日、納得できないことがあったとしても、通過地点と思えれば、明日からの道を練り直す元気につながりそうです。




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忘れられないパスタがあります。

ローマのL'Archettoというパスタ屋さんのトマトソース味。

ときどき、ふとあのよく焦げたガーリックとオリーブの風味が蘇るのです。ちょっと太めのパスタにいいお味が染み込んで、もう、一度食べたらやめらません。

突然脳裏によぎるあの香ばしい匂い…やはり嗅覚は脳に記憶として残るものなのだということを再認識。

とくにあの店のペスカトーレときたら!!

様々な種類の貝が載って、ボリュームも本当にすごかった。

私がイタリアに居たのはもう16、7年前になります。その後も何度か、ローマに行けるときは必ずあの店に行きました。

私にとってあの忘れられない香りは、おいしい記憶とともに夢いっぱいの若かりし頃を思い起こす匂いでもあるのです。

つまり、青春の香りがオリーブ油とガーリック…⁉︎

イタリアから帰ってから5年くらいは、パスタもコーヒーもイタリア式にこだわりました。やっぱり日本の店ではあの味は食べられないので、必ず自分で作って。

それが今や。子供とスパゲッティを食べるときは、もちろん時短最優先。買ってきたソースを平気で使える日々です。

でも今日は突然、仕事中にあのパスタの香りが蘇り、久々にこだわりのパスタを作ることにしました。

残念ながら、仕事帰りに立ち寄ったスーパーでは、たくさんの種類の貝はありませんでしたが、ラッキーなことにアサリが旬の季節です。有頭のエビもいい味を出してくれて 納得の一皿ができました。

8歳の娘にこの超こだわりパスタを食べさせたのは初めて。いつもは食が細くて遅い娘が、生まれてきて一番のパスタだとグーサインを出して、あっという間に食べてしまったのです。

やはり、娘にも確実にママの好みが遺伝しているようです。

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(ミャンマーには電車はない!というブログを目撃し、「車両」になおしました)

昨年、帰国する前にヤンゴンの環状線に乗ってみたときの写真が出てきました。なんと、記念に乗ってみた電車が新潟製の日本の電車の車両だったのです。
記憶が薄れてしまう前にご紹介します。

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ヤンゴンの市街地をかこむように走るローカル線、実はミャンマー人の主人も一度も乗ったことがないというのです。

車通勤の渋滞の酷さを考えると、時間帯によっては使えるかも、とウワサしていたのですが、結局、ヤンゴン在住中は乗らずに過ごしてしまったので、帰国前に一度乗ってみることにしたのでした。

自宅最寄の小さな駅に行ってみると、案の定、ミャンマー語の看板しかありません。

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小さな駅舎で紙の切符を購入します。一応、大人用、子供用と分かれていました。

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駅で待っていると、やってきたのは緑色に塗られたザ・鉄製!というかんじの車両。

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この車両はどこ製だかわかりませんでしたが、ドアもなく、走行中もオープンな感じでした。雨季はどうなるのでしょう。
中は夕方のマーケットに向けた荷物をたくさん抱えた行商の方が多いようでした。この日は週末だったので、比較的空いていた様子。

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で、帰りの車両がこちら。やってきたのは何やら見覚えのあるような丸みを帯びたフォルム。そう、これが日本の電車の車両だったのです。

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中も、昔懐かしい日本風!ただ、やはりドアは開けたままでした。

壁には、日本語で津波がきた場合の注意などが貼ってありました。
その上のほうの古めかしいプレートをよく見てみると、『新潟鐡工 昭和54年』の文字が!なんだか、この文字を見たら、ふつふつと感動がこみ上げてきたことをよく覚えています。
私が子供だった頃の日本の電車が、今のヤンゴンで活躍してるんだー!と。

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途中の駅では、日本人らしき5人位の団体が一駅だけ乗車して、また降りてゆきました。海外で活躍する懐かしい日本の電車を見に来られた鉄道ファンの方々だったのかもしれません。
私は全く鉄道に詳しくありませんが、ちょうど日本製の車両に遭遇できて本当にラッキーでした!

近年は日本の援助などによりこの路線の近代化計画が進められているように聞いているので、次に行ったときは景色がだいぶ変わっているかもしれません。

BBCのニュースを見ていると最近よく目にする黒髪の国際ジャーナリスト、ヤルダ・ハキームさん。紛争地や自然災害の現場を取材する、エキゾチックな風貌にこの名前。どこの人だろうと気になって調べると、なんとアフガニスタン出身でした!

私にとってのアフガニスタンは、2005〜6年に仕事で滞在したときに見た、内戦後の、それはそれは厳しい世界です。あの国から、世界で活躍する若い女性が出てきたとは!

といっても、彼女の家族はヤルダさんが生後6ヶ月でアフガニスタンを逃れ、オーストラリアで育ったそうです。オーストラリアのSBSで国際ジャーナリストとして活躍した後、2012年よりイギリスBBCの国際ニュースを担当することに。

家族の、そしてアフガニスタンの苦難に再び向かい合うことになった彼女のアイデンティティを知ることができるインタビュー記事が、インディペンデント紙のネット版にもありました。
 http://www.independent.co.uk/news/media/tv-radio/from-refugee-to-war-reporter-yalda-hakim-fled-afghanistan-as-a-baby-and-now-reports-from-the-worlds-conflict-zones-8991572.html
 
これからもジャーナリストとして、彼女だからこそ見えるもの、伝えられるものがあるのでしょう。 

人生には変えられない宿命のようなものと、意思や信念で自ら切り拓けるものが交じりあったものだなあと思います。

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偶然テレビで知って以来、我が家のお気に入りになったイタリアの童謡があります。
イタリアでは子供の頃に誰もが聞いて育った有名な童謡らしいのですが、
なかなか奥深い歌詞と楽しいメロディーに、とてもイタリアらしさがあります。
定冠詞と不定冠詞の使い分けのあたりも、意味深いものがありますね。

うちの娘もあっという間に歌詞を覚えてしまい、毎日歌うようになりました。
歌の力、イタリア語の魅力を改めて感じてしまいました。




Ci vuole un fioreより抜粋

Gianni Rodari
作詞 parola Sergio Endrigo, Luis Enriquez Bacalov
作曲 musica Gianni Rodari
(1974年)

Per fare un tavolo ci vuole il legno
Per fare il legno ci vuole l'albero
Per fare l'albero ci vuole il seme
Per fare il seme ci vuole il frutto
Per fare il frutto ci vuole il fiore
Ci vuole un fiore, ci vuole un fiore
Per fare un tavolo ci vuole un fiore

花は必要

テーブルを作るためには 材木が必要
材木を作るには 木が必要
木のためには 種が必要
種のためには 実が必要
実のためには 花が必要
花は必要 花は必要
テーブルを作るためには 花が必要


ジャスミンというと、とてもアジアなイメージがあります。お茶や映画、アートから香水まで、アジアの文化とつながりの深い花と言えるでしょう。アウンサン・スー・チーさんのことを書いた『銃とジャスミン』という印象深いタイトルの本もありました。

私のジャスミンとの印象に残る出会いは、初めてミャンマーを訪れたときのものでした。寺院やマーケット、道端などあちこちでジャスミンの花に糸を通した花輪を売る人に遭遇します。ミャンマー語でザベーと呼ばれるこのジャスミンの花輪は、仏像に供えるほか、部屋や車の芳香剤として活躍しているのをよく見かけます。ホテルに戻ればロビーにジャスミンの香りが出迎えてくれるといった具合いです。初めてのミャンマーはまさにジャスミンの香りに満たされたものでした。

すっかり魅せられた私もジャスミンの花輪を買い、ホテルの部屋に飾って楽しむことにしたのですが…。主人曰く、ジャスミンは夜中になるとキョーレツな匂いを放つようになるから知らないよ、とのこと。

果たして、夜中に予想以上にキョーレツさを放ったジャスミンに辟易し、部屋の外に出すことになったのでした。

とはいえ、私にとっての最初のミャンマーは、ジャスミンの香りとは切り離せないものとなりました。後にはマーケットや発酵食品の匂いを知ることになるのですが…

アロマの王とも呼ばれるジャスミンは、夜に化学反応で強い匂いに変わるのを待って手摘みで花が採取されるそうです。そのため、そのエッセンシャルオイルは大変高価なものとなることでも知られます。

ミャンマーの特産品として、もっともっとジャスミンを活かす道がありそうな気がします。

大学で偶然ドイツ語の成績がよかった私は、実は最初ドイツ留学を考えていました。ところが、私の好きなドイツ人の作家や芸術家が口を揃えてイタリアへの憧れを書き残しているのをみて、当時大学院で建築史を学んでいた私もイタリアに行先を変えました。思い立ったのは秋、次の春にイタリア政府奨学生試験を受けることにしました。

6ヶ月で試験に受かるため、ベルリッツに通いながら猛勉強。研究室の大きなシンポジウムの手伝いや修士論文の作成と並行して勉強したため、その冬は睡眠時間2、3時間という日が続きました。結果、なんとか試験に受かり、8月からイタリアのミラノ工科大学に留学しました。

8月にイタリアに向かう飛行機のなかでは、隣に座ったイタリア人のおじさんと11時間会話が弾みましたし、現地でも生活で困ることは感じませんでしたから、使えるイタリア語が短時間で身に付いたのは確かなようでした。

なぜたった6ヶ月でイタリア語が覚えられたのか。それはもちろん、目的意識と集中して勉強したことに加えて、イタリア語と相性がよかったということもあるでしょう。でも、私がはっきり感じたのは、ベルリッツの教授法の良さです。たった一回のレッスンで、確実に話せることが増えるのを実感するのです。

ベルリッツメソッドは、幼児が言葉を覚えるように言語を教える直接法によるナチュラルメソッドの一つですが、長いこと日本的な語学学習の癖がついた私には目からウロコでした。

先生はほとんど何も教材も媒介語を使わず、口と簡単なメモ書きだけでレッスンが進行します。まずは幹となる文法と文型をリピートし、次はその文型を使って、生徒が先生に質問を投げなければなりません。最初は難しく大変な集中力を要しますが、先生はよくトレーニングされていて、順次枝葉を広げられるように指導してくれます。この間、先生ももちろん教科書も教案も見ません。最初から最後まで、お互いに目を見て口頭ですすめるのです。これは教師の側に大変な能力が要求されますが、生徒にとっては、教室を出たときから文法や文型が使いこなせるようになるほど効果大なのです。

このような教授法では、最近流行しているコーチングの訓練がとても効果的ではないかと思います。コーチングでは、本人が自然に習得する力を支援するのだそうてす。まさに幼児が自然に言葉を覚えるように語学を身につけるというアイディアと共通します。

また、どの順序でどの項目を叩き込むかということも重要です。まずその言語を使いこなす上で幹となる要素から教えるからです。イタリア語でいえば、基本的な語順と前置詞、イタリア語的な表現の要となるセンスのようなものから教え込んでいくのです。

では日本語に翻って考えてみると、日本語的なセンスを身につけるために必要な幹となる要素は何なのか・・・。ベルリッツでは日本語も開設しているので調べてみたのですが、まだ具体的な内容を入手することができませんでした。でも、ナチュラルメソッドの視点から、日本語の教え方について勉強してみることはとても意味があることではないかと思っています。

海外で日本人が死傷など、事件に巻き込まれるニュースを耳にすると、他人事とは思えません。
私も研究や仕事などでよく海外を訪れ、幸いに盗難をふくめ、海外で犯罪被害に遭ったことは一度もありませんが、友人知人の中には鞄を切られたり、薬物を使ったこん睡強盗の被害にあったりした人もいます。

日本人女性は小柄で簡単にやりこめる印象があるといわれたことがあります。また、複数だと気が緩むもので、団体旅行で日本語で話している中高年の人や、国際交流に関心があり現地の人とのコミュニケーションを求める若者が不意を突かれているのをよく見聞きしました。

旅行者が多い国などでこういった事件が起こると、ニュースの中の解説員は必ず親日国なのに・・・というような発言が出てきますが、海外旅行者が襲われるといった問題に親日か、非親日かというのはあまり関係ないと思います。どの国にも残念ながら犯罪を犯す人がいるものです。特にイスラム圏では女性は自覚している以上に注目を集めやすいものですし、偶然見てはいけない場面に通りかかってしまったりすることもあります。

私も、遺跡を訪れることが多かったので、廃墟の裏側にまわると、先方の草むらの中から急に男達が立ち上がって威嚇されたり、だれもいないように見えた狭い階段で急に男に声をかけられて慌てたり、ひやりとした経験はいくどかあります。観光地でも少し裏に回ると注射器が落ちていたりするものです。少年たちが追いかけてきて石を投げられたこともありますし、一本裏道を通ったらうつろな人が道端にたむろしているエリアだったり、アフガニスタンでは、地雷の撤去されていないエリアに知らないうちに入ってしまったことも。

次第に、危険を感じる嗅覚のようなものが発達してくるものです。もし今危険な状況になったらどんな手段をとれるか・・・?ということを念頭におけば、おのずと行くべき道は見えてきます。だからこその自己責任なのですが、犯罪に巻き込まれると、傷つくのは自分ばかりでなく、必然的に多くの人を巻き込むことになります。

状況を正しくとらえて的確な判断力を養うことこそ、自立した人生や、真の国際交流に必要な力だと思います。

学生時代、ごく短い期間でしたが、オックスフォード大のガーデナーのお宅にホームステイをしたことがあります。
90年代でしたので、まだ今ほどガーデニングブームもなく、私の母が自宅で勤しむ園芸以上の知識もなかった私が、ガーデナーのお宅にホームステイできたというのは、今思えばとてもラッキーなことでした。

そのお宅はオックスフォード中心部に近い古いコテージで、代々オックスフォード大のガーデナーが住んできた家だといいます。お父さんはオックスフォード大の複数のカレッジを担当するガーデナーで、奥さんはてきぱきと仕事と家事をこなすワーキングマザー。10の娘さんと4歳の男の子がいて、小さなコテージは、私もいれるといっぱいでした。

初日にざっくりと家庭内のルールを説明されると、それぞれ仕事に学校に皆出かけて行ってしまいます。あまり英語が得意でなかった私は、必要最低限の会話でも気後れして、自分から積極的に家族とコミュニケーションをとることもできませんでした。それでも、生まれて初めての海外家庭での生活は、いろいろなことを学ばせてもらいました。

ホームステイの学生を受け入れているのに、日中誰も家にいないことも驚きました。子供が二人いるワーキングマザーは、それだけでも忙しいのに、どうしてホームステイの受け入れをしているのだろうと。お母さんによると、だからこそ、子供に小さいうちから家の中でもきちんと片づけたり、意味のあるルールを守ったり、多様な価値観に触れる機会をつくることが大切だと考えているのだそうです。

10歳の娘は、外国人の私を見ても全く人見知りしませんし、毎回お風呂の後にバスタブをきちんと掃除して出てくる習慣も身についています。去年、何か考えさせられるエピソードがあったとかで、家族で彼女一人がベジタリアンになったのですが、両親は自分で考えて決めたことだから、と彼女だけに別の食事を用意していました。はっきりと意見を言う娘の姿に、最初は少し生意気に見えたものでしたが、子供に自立を促し、大人と同様に意見を尊重する教育に、日本の教育とは大きく異なるものを感じました。

ガーデナーのお父さんは、日中も仕事の合間にちょこちょこ家に戻ってきます。ときどき、私を庭に誘ってくれました。3月だったので、まだコートを着込んでも寒く、どんよりとした日が多かったのですが、私にとっては、はじめてのイングリッシュガーデンの体験でした。

穏やかで口数の少ないお父さんが、庭の説明となると明るくよくしゃべるのです。この庭はブルーの花ばかりを集めたブルーガーデンで、僕はここが一番気に入っている、この部分は僕の担当になってから新しく花壇にしたエリアだ、ここは大学の宿舎の庭だから、白い花ばかりを集めてみた・・・などなど。

広い公園のようなカレッジの庭から庭へ、一般の人は通り抜けできない柵やゲートを越える、庭師専用ルートを通って案内してくれるのでした。とあるカレッジでは、ここにそんな入口が・・・!と思われるようなところから重厚なチャペルの2階のメンテナンス用通路に入って、ステンドグラスの窓沿いに並ぶ鉢植えの植物に水をやって回ったり・・・。大学で園芸を学んだお父さんは、知識の一環として、日本の庭についても知っていて、ときおり比較しながら説明してくれました。

大学に専用のガーデナーが何人も住み込んでいるなんて、さすが英国と驚いたり、大学内のそれぞれのカレッジに歴史あるチャペルがあるというのも、キリスト教国ならではと感心したり。歴史ある建物を素晴らしく手入れの行き届いた庭が囲むその雰囲気は、最高の教育環境にほかなりません。あまりにも絵のように完璧なその景観が、このガーデナーのお父さんのおかげで生き生きとしたストーリーのある世界を見せてくれるようになったのでした。植物を愛するお父さんの職人気質な姿には、国籍を超えて、何かにうちこむ人への親近感も感じました。

今ようやく自分の家の庭を少しだけ手入れするようになって、ふとあのオックスフォードのお父さんのと廻った庭のことを思い出します。



8月12日はペルセウス座流星群を見るのに最適な条件といわれていました。夜中の2時頃、空を見上げてみたものの、残念ながら我が家の空は曇っていて、何も見えませんでしたが。

星を探して空を見上げるとき、いつも思い出すのは、昔仕事で訪れたアフガニスタンはバーミヤンの夜景です。

標高2500メートルほどのバーミヤン。もちろん電気もない荒涼とした世界の空は透明で、夜空がこんなに青いとは知らなかった!!と思わず呟いたのをおぼえています。地平線に向けて淡くなっていく青いグラデーションの中に、山の稜線がくっきりと黒く浮かび上がります。

そこにひろがる無数の星の世界!まるで広い海にたくさんのダイヤをばらまいたよう。その驚きと感動は息をするのを忘れるほど衝撃的で、地球上で経験できる現実とは思えないほどのものでした。まるで空と海が反転したような夜空はどこまでも広く、自分が地上に立っていることさえ分からなくなるほどでした。

なかなか心身ともにハードな現場での仕事でしたが、一緒に仕事をした仲間と見たあの夜景は厳しい環境ならではのご褒美でした。

現在のインドといえば、ヒンドゥー教徒が多いイメージがあります。言葉同様に、広い国内ではさまざまな土着の宗教と融合した宗教が地域によりみられるようでしたが、出会った人にいちいち信仰について尋ねたわけではないので詳しくはわかりません。

首都デリーの博物館の一角で、現地の仕事の関係者とミーティングをした日がありました。確か、文化庁関係の役所の建物だったと思うのですが、私は会議中に急にトイレに行きたくなってしまいました。壁際に立っていた女性に声をかけてトイレの場所を聞いたのですが。。。なんと施設内には女性用トイレがないので、自分の宿舎に案内するというのです。

うーん、女性用トイレがないなんて・・・男尊女卑?などと思いながら、案内してくれた女性の後をついていくと、役所の建物の裏に、小さな長屋のような建物がある敷地に入りました。女子寮のようなものだそうで、案内してくれた彼女もそこに住んでいるのだそう。

用を済ませてお礼を言って戻ろうとすると、「あなたは仏教徒ですか」と彼女。「はい、仏教徒です・・・」いつも宗教について聞かれるとこう答えるものの、敬虔ではない普通の日本人の私は、つい自分のえせ仏教徒ぶりに恥ずかしい思いをすることが海外でよくあり、あまり自信をもって言えないのです。

日本人だから仏教徒だろうと思って尋ねたのでしょう、それを聞くと彼女は急ににこやかに自己紹介をはじめ、自分も仏教徒だというのです。そしてこれをお土産に、といって、白い大理石でつくられた仏像を私に渡しました。「え?これお土産?」と驚く私に、「私の家に来てくれた仏教徒の方には感謝の意味で仏像をあげるのが習慣なのです。もっていってください。来てくれてありがとう」などと、私の手をとって言ったのです。

ただトイレを借りただけなのに・・・?とやや困惑した私でしたが、同年代と思われる彼女の親しげな瞳に圧倒されて、ありがたくいただくことにしました。

インドでは、若い女性が外国人と親しげに話をする印象はありません。特に男性社会のお役所では、若い女性の存在が目に入らないほど印象に残っていませんでした。もしかしたら、本当はホスピタリティにあふれたチャーミングで好奇心のある一面を垣間見たような気がします。向うも同様に、同じ女性として好感をもってくれていたのかもしれません。

会議室に戻ると、彼女はまた前のように無表情に壁に溶け込んだのでした。

その時の大理石の仏像は、今も私の家に飾ってあります。

先日のミャンマー旅行では、インレー湖やバガンを久しぶりに訪れました。
念願の世界遺産登録が近づいているとあって、急激な観光化が進んでいて驚きました。

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足で道具を操る伝統的なインレー湖の漁

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バガンののどかな風景よ、永遠に。。。

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メティッラーの伝統的な市場のにぎわい。
木のまま売られているバナナ!にうちの娘はくぎ付けでした。
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エーヤワディー川の夕景
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