先日、とあるインターナショナルスクールを見学する機会に恵まれました。PreKから10年生まであるその学校では、先生方はほぼネイティブの英語話者ですが、生徒の日本語もOKなのだそう。そのため、この学校の子供達はどうしても日本語が多くなるという噂を聞いていたのです。この点について校長先生が次のように説明されました。
「私たちは日本語はダメ、何語はダメ、ということは言いません。言葉を制限することは、その子のアイデンティティを制限することです。それはデモクラシーではありません。」
なるほど・・・、と思うと同時に、正直少し戸惑いもありました。言語に対する学校の方針とデモクラシーを結びつけることに驚きがあったのです。
民主主義をめぐる戦いの続くミャンマー人と関わる私にとって、デモクラシーという言葉のひびきはとても重いのです。
現在娘が通うインターでは、よく校内では日本語禁止!と言われていて、英語力の向上のためにはそのほうが望ましいと考える親が多いようです。それはデモクラシーに反することだったのでしょうか。
確かにミャンマーはじめ、他民族国家では、衝突が続く周辺民族との対立要因の一つに、学校での公用語の問題があります。もちろんそれは主に公立学校の問題ですが、広い意味で言語の問題は、確かに民主主義とも関わる奥深い課題です。
子どもにとって学校は長い時間を過ごす場所であり、社会を学ぶ場であることを考えると、母国語を禁止するということのインパクトは、大人が思う以上に大きいのかもしれません。
一方で、校内は英語のみと厳しく規則付けないと、日本語を使ってしまい、英語がなかなか身につかず、授業についていけなくなります。日本語話者が増えれば、日本語話者以外が疎外感を感じるという問題もあります。ある種、特殊な環境であるインターナショナルスクールでは、校内は英語のみとするのは妥当ではないかと思うのです。
結局は学校の方針次第であり、どのような方針の学校を選ぶのかは、それぞれの家庭次第です。ですが、なかなか考えさせられた一言でした。
「私たちは日本語はダメ、何語はダメ、ということは言いません。言葉を制限することは、その子のアイデンティティを制限することです。それはデモクラシーではありません。」
なるほど・・・、と思うと同時に、正直少し戸惑いもありました。言語に対する学校の方針とデモクラシーを結びつけることに驚きがあったのです。
民主主義をめぐる戦いの続くミャンマー人と関わる私にとって、デモクラシーという言葉のひびきはとても重いのです。
現在娘が通うインターでは、よく校内では日本語禁止!と言われていて、英語力の向上のためにはそのほうが望ましいと考える親が多いようです。それはデモクラシーに反することだったのでしょうか。
確かにミャンマーはじめ、他民族国家では、衝突が続く周辺民族との対立要因の一つに、学校での公用語の問題があります。もちろんそれは主に公立学校の問題ですが、広い意味で言語の問題は、確かに民主主義とも関わる奥深い課題です。
子どもにとって学校は長い時間を過ごす場所であり、社会を学ぶ場であることを考えると、母国語を禁止するということのインパクトは、大人が思う以上に大きいのかもしれません。
一方で、校内は英語のみと厳しく規則付けないと、日本語を使ってしまい、英語がなかなか身につかず、授業についていけなくなります。日本語話者が増えれば、日本語話者以外が疎外感を感じるという問題もあります。ある種、特殊な環境であるインターナショナルスクールでは、校内は英語のみとするのは妥当ではないかと思うのです。
結局は学校の方針次第であり、どのような方針の学校を選ぶのかは、それぞれの家庭次第です。ですが、なかなか考えさせられた一言でした。
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