連休にカズオイシグロの最新作「クララとお日さま」を読みました。AIを搭載したロボットのクララによる優しい語り口で、厚さの割に思いの外あっという間に読了してしまいましたが、久しぶりに、不思議な読後感がいつまでも続く作品でした。
美しい子供とか、お日さまへの崇拝や友情についての純粋さへの賞賛のコメントが多いようですが、私はそういった眩しい面のほかにも、文学だからこその面白さや静かな警鐘のようなものも感じたので、備忘録がてら書いています。
まず、全編がロボットのクララによる観察の語りですが、この人間への洞察と何か観察者独特の偏った視点が味を出す手法は初めての感覚ではない…前にもどこかで…と思い返したら、「吾輩は猫である」でした。吾輩もクララも、独自の感性で、よく家族を観察し、理解しようとしています。その狭い世界の中に、人間の愛や愚かさがよく炙り出されているのです。
この作品は、文字だからこそロボットの観察力の表現に成功しているという面白い面もあると思います。著者は、翻訳者に対して、生まれたてのAIならではのクララ語をそれらしく訳出することを求めたそうです。全体的にあらゆる場面で説明がシンプルで、汲むべき行間が多いと感じるのですが、それが想像力を掻き立てているところでもあるでしょう。
例えば、最後の場面で、自由に動かせるのが頭だけ、視線だけとなったクララが、懐かしい店長さんと再会する場面。大変美しい語り口のままでしたが、もしこの場面を映画にしたらどうなるでしょう。残酷なものがたくさん写りこみ、見る者はそちらからの情報が多すぎて、また、人間の見慣れた先入観が情報を補いすぎて、間違いなくクララの視点を失うでしょう。
歳月がたってから、廃品置き場を訪ね歩いていた店長さんは、どんな身なりでどんな目的だったのか。おそらく風貌や景色が見えることで、クララにとっての店長さんとの関係に、別の印象がもたらされることでしょう。
他の場面でも、夕日に包まれた小屋の場面のように情景描写が際立つ場面がある一方で、敢えて物足りないくらいシンプルな描写にとどめている場面が多いと感じました。
文学だからこそ成し得たロボット目線による対象の絞り込みや世界観があるのだと思います。
また、クララの太陽盲信について。純粋だとか崇拝と理解する声が多いようですが、私はこれには、AIの暴走を仄めかしたのではないかと感じています。確かに、愛ゆえの一途さを示しているのですが、見方を変えれば執拗な目標の破壊に他なりません。頑なに信じたことを突き進むのは、人間なら思い込みで済むかもしれませんが、AIは最終目標を設定してしまったら、善悪の判断の余地は無いわけです。
友情もどうでしょうか。クララ達AIロボットは、子供の良き友達となることを期待されて造られ、購入され、消費されています。良い友達になることが目標なので、その目標に向かってクララはいつも努力するのです。そう造られているのです。子供が大きくなり、或いは目標が達成されて用済みになったとき、読んでいる私達人間は悲しいと感じますが、クララがそう感じたとはどこにも書かれていません。おそらくやはり、感じることはなく、理解できてしまうのでしょう。登場人物も当たり前のようにそれを受け入れている時代のように描かれています。
文学としては、それが一層現代の読者の感情を揺さぶることになります。
全体を通して、AIと人間との友情の可能性を賛美したり、クララを美しい子供として描いたという印象がありません。むしろ、今後関わりを深めざるを得ないAIに対して、ポジティブに捉えることもネガティブに捉えることもなく、一定のドライな距離感を感じるのです。
AIという鏡を通して、友情や家族愛、孤独や傲慢といった、人間の欲望や心の波を浮き立たせるとともに、AIそのものが負う、人間とは異なる性を敢えて強調しようとしているように思います。
それにしても、いつまでも不思議な読後感が続くのは何故なのか…。
美しい子供とか、お日さまへの崇拝や友情についての純粋さへの賞賛のコメントが多いようですが、私はそういった眩しい面のほかにも、文学だからこその面白さや静かな警鐘のようなものも感じたので、備忘録がてら書いています。
まず、全編がロボットのクララによる観察の語りですが、この人間への洞察と何か観察者独特の偏った視点が味を出す手法は初めての感覚ではない…前にもどこかで…と思い返したら、「吾輩は猫である」でした。吾輩もクララも、独自の感性で、よく家族を観察し、理解しようとしています。その狭い世界の中に、人間の愛や愚かさがよく炙り出されているのです。
この作品は、文字だからこそロボットの観察力の表現に成功しているという面白い面もあると思います。著者は、翻訳者に対して、生まれたてのAIならではのクララ語をそれらしく訳出することを求めたそうです。全体的にあらゆる場面で説明がシンプルで、汲むべき行間が多いと感じるのですが、それが想像力を掻き立てているところでもあるでしょう。
例えば、最後の場面で、自由に動かせるのが頭だけ、視線だけとなったクララが、懐かしい店長さんと再会する場面。大変美しい語り口のままでしたが、もしこの場面を映画にしたらどうなるでしょう。残酷なものがたくさん写りこみ、見る者はそちらからの情報が多すぎて、また、人間の見慣れた先入観が情報を補いすぎて、間違いなくクララの視点を失うでしょう。
歳月がたってから、廃品置き場を訪ね歩いていた店長さんは、どんな身なりでどんな目的だったのか。おそらく風貌や景色が見えることで、クララにとっての店長さんとの関係に、別の印象がもたらされることでしょう。
他の場面でも、夕日に包まれた小屋の場面のように情景描写が際立つ場面がある一方で、敢えて物足りないくらいシンプルな描写にとどめている場面が多いと感じました。
文学だからこそ成し得たロボット目線による対象の絞り込みや世界観があるのだと思います。
また、クララの太陽盲信について。純粋だとか崇拝と理解する声が多いようですが、私はこれには、AIの暴走を仄めかしたのではないかと感じています。確かに、愛ゆえの一途さを示しているのですが、見方を変えれば執拗な目標の破壊に他なりません。頑なに信じたことを突き進むのは、人間なら思い込みで済むかもしれませんが、AIは最終目標を設定してしまったら、善悪の判断の余地は無いわけです。
友情もどうでしょうか。クララ達AIロボットは、子供の良き友達となることを期待されて造られ、購入され、消費されています。良い友達になることが目標なので、その目標に向かってクララはいつも努力するのです。そう造られているのです。子供が大きくなり、或いは目標が達成されて用済みになったとき、読んでいる私達人間は悲しいと感じますが、クララがそう感じたとはどこにも書かれていません。おそらくやはり、感じることはなく、理解できてしまうのでしょう。登場人物も当たり前のようにそれを受け入れている時代のように描かれています。
文学としては、それが一層現代の読者の感情を揺さぶることになります。
全体を通して、AIと人間との友情の可能性を賛美したり、クララを美しい子供として描いたという印象がありません。むしろ、今後関わりを深めざるを得ないAIに対して、ポジティブに捉えることもネガティブに捉えることもなく、一定のドライな距離感を感じるのです。
AIという鏡を通して、友情や家族愛、孤独や傲慢といった、人間の欲望や心の波を浮き立たせるとともに、AIそのものが負う、人間とは異なる性を敢えて強調しようとしているように思います。
それにしても、いつまでも不思議な読後感が続くのは何故なのか…。