MYITTAの工房

日々のくらしや手作り、ときどきミャンマー

July 2013

パトリシア・クールによるTEDプレゼン「赤ちゃんは言語の天才」

赤ちゃんの言語習得の特徴について、最新の脳科学に基づいて紹介するということで、楽しみにしていました。

一番関心あるところはやはり脳の臨界期について。おおよそ7歳ころを境に、言語の習得能力曲線が大きく下降し始めるそうです。これは、20年前に私が言語学を学習していたころに習った記憶とほぼ同じ見解です。

新鮮だったのは、子供には音声の聞き分けについて脳内で統計処理を行うことで母語を身に着けていくらしいということ。LとRのような、母語話者以外には見分けにくい音声の聞き分けについて、その能力に差がつきはじめるのが生後6−8か月から10−12か月の間だという実験結果がありました。そしてこの統計処理は、第二言語についても行えるらしいとのことで、英語と並行して生の中国語も聞かせた子供は、母語話者とおなじような聞き分け能力の発達がみられたそうです。

1歳までに母語の音声学的な聞き分けができるらしいということは、これまでにも言われれてきましたが、最新の脳科学の研究によって、より科学的な裏付けが積み上げられてきているということなのだと思います。

母親と父親の母語が異なる場合、赤ちゃんのころから両言語を聞くことでバイリンガルになりやすいわけですが、そうでない家庭の場合、習得したい言語のベビーシッターを頼むことが近道なのでしょうか。将来、そんな語学教育ビジネスも盛んになりそうな気がします。

ちなみに我が家では、パパがミャンマー語で話しかけをしてこなかったので、ミャンマー語はまったくの外国語。幼稚園が英語な分、今のところ日本語>英語>ミャンマー語です。来年あたりミャンマーに移住すれば、臨界期には間に合うか・・・?

偶然BSで見始めて、つい最後まで見てしまった映画『扉をたたく人』。
ある大学教授が出会った若い不法移民との交流と、強制送還という現実にかかわる人間ドラマで、久しぶりに余韻に浸れる映画でした。日本での平和すぎる日常では忘れそうになりますが、こういう様々な状況に置かれた人が現在同じ地球上にたくさんいるのだということを思い出させられます。

観るうちにどんどんその魅力に引きこまれていくのがヒアム・アッバスというイスラエル出身の女優さん。この映画がテーマのわりにネガティブすぎず、品があって大人な仕上がりとなっているのは、この女優さんの存在感が大きかったと思います。不本意な立場に追い込まれても、毅然として誇りと強い意志をもって生きている・・・そんな存在の人です。

どこかで見たことがある人だな。。。と思って調べたら、昨年見た『シリアの花嫁』に出ていた女優さんでした。こちらもとても印象に残る作品でした。この方、女優だけでなく監督作品もあるようです。最近中東の女性が作る素晴らしい映画作品に触れる機会が増えてきました。

社会、女性、宗教、政治、マイノリティー、家族愛、宿命・・・様々な想いを伝える作品を作る彼女たちから目が離せません。

ケリー・マクゴニガルの『スタンフォードの自分を変える教室』(大和書房)に面白いことがかいてありました。

「現代生活は自制心を要することばかりですから、意志力などかんたんに使い果たしてしまう(P.94)」というものです。意志力は筋肉と似ているとのこと。自制心を働かせると脳は大変なエネルギーを要するため、蓄えられていた一定の力を使いすぎると、使い果たしてしまうのだそうです。

そう考えると、ミャンマーの田舎でのびのび過ごしすのと比べ、日本で生活すると、なぜ普通の日常をこなしているだけでも疲れ果ててしまうのかよくわかります。ものがあふれた日本では、気を散らす様々な環境要素や誘惑から身を守るだけでも大変なエネルギーを消費しているのでしょう。

もう一つ、「限界を感じるのは脳にだまされているだけ(p.115−)」というのも面白いことです。脳の中の慎重なモニターが、極度の疲労を防ごうとして、負担がかかりすぎる前にぺースを落とすように指示をだすのだそうです。
これも、とても頷けます。私も、年とともに脳がブレーキをかけるタイミングが早くなっているのを感じていました。

先日甲状腺ホルモンの血液検査をしたときのことです。マーカーとなる3種類のホルモンのうち、甲状腺からのホルモン2種類は正常値でしたが、脳からのホルモンだけが異常値でした。お医者様いわく、「脳が甲状腺ホルモンが多すぎると感じている状態」なのだそう。脳が事実を無視して、勝手にものを判断して守りに入っているのではないかと思いました。

心と体のバランスにとって、脳の働きがいかに大きいかがよくわかります。脳に悪影響を与えるものとしてストレスや睡眠不足がよく言われますが、私の場合思い当たるストレスもありませんし、睡眠は恥ずかしいほど長時間とれています・・・。むしろ、脳が暇をもてあましているのかもしれません。以前は仕事でもっと頭をつかっていたので、脳にはとても負荷がかかっていたはずです。それが産後いきなり主婦になたったために、脳の働く場所が急変しました。育児というのはより本能に近い部分の脳を使っている気がします。同時に、理論的な考えを行う脳のニューロンが勢いよく減っていくのを感じました。

日常的にも考える忙しさがなくなった脳は、代わりに考えるネタ探しを始め、心や体の不調を招く様々な暴走行為を勝手に進めるようになったのではないか、とさえ思えます。つまり、主婦が育児ノイローゼになったり、つまらないことでくよくよするようになるのは、脳の働きのバランスが悪いためなのではないかと思うのです。

脳の暴走を防いで、意志力を磨くためには、適度に脳に負荷をかけているほうがよいのかもしれません。

娘は日本語、英語、ミャンマー語に囲まれた環境です。とりたてて教育熱心な親なわけではなく、父母それぞれの母国語と、どうしても相対的に不足しがちなミャンマー語でのコミュニケーションの不都合を考えて、親戚間での共通言語としてやっぱり英語は必要という考えからです。かつてイギリス統治下にあっただけあって、ミャンマー人の英語力はだいぶ発達していますし、アメリカに住む娘のいとこは英語しか話せません。

こうした幼児の複数言語の習得について、かえって混乱して言語の発達が遅れるという説があり、私もよくそのことを聞かれます。現在のところ、私の答えとしては、「子供による」ということです。

私の娘は、かなりおしゃべりなので、母国語としての日本語はすでに流暢ですし、英語への切り替えもスムーズです。ほかの子と比べて相対的に発話数が多く、話したい、という欲求が言語の壁を乗り越えているように見えます。つまり、相手が英語しかわからなければ英語で話すことが自然にできるようになってきました。これはインターナショナルスクールで英語しかわからない友達とも遊びたいということが大きなモチベーションになっているのだと思います。(娘が大好きなのは、英語しか話せないインド人のT君です!)

私がイタリア語を好きなことを知っていて、時々これはイタリア語で何ていうの?と聞いてきます。一応答えてはあげますが、さすがに多言語すぎはどうかな??と思い、優先的に身に着けさせたい言葉以外のインプットは控えるようにしています。まあ、彼女の場合、たまたま言葉というものが好きなのでしょう。

パパとは日本語でも英語でもOKです。ミャンマーに行けば、ミャンマー語を駆使しようとしています。単語レベルでいうと、英語しかわからない単語と日本語でしか覚えていない単語があるので、ときどきミックスしていますが、あくまでもボキャブラリーレベルの問題なので、これはやがて語彙が増えるとともに解消されてゆくでしょう。

4歳くらいですと、母国語だけに限っても、言語の発達には大きな個人差があります。実際、まだ上手に話せない子も少なくなく、その場合には子供がきちんと言葉を理解できているのか、まだ確認することさえ難しい場合があります。そういう子の場合、複数言語を学習させていると、そのせいで混乱が生じていると思われることがあるでしょう。

言語学では、母国語の形成期は2歳から12歳ころの間とされ、その時期をクリティカルピリオドとか、センシティブピリオドといいます。たとえ上手に話せなくても、脳に蓄積された言語能力があとで開花してくることもあるでしょうから、まだ観察が必要なのだと思います。本人がおとなしくて人とのコミュニケーションが苦手な性格であるとか、第2言語に触れる機会が極端に少ないために、その学習が負担になっているようであれば、無理させないほうがよいのではないかと思います。つまり、言語だけに限ったことではありませんが、親が子供の関心をよく見極め、タイミングを上手にはかってあげることが重要なのではないでしょうか。

もうすぐ5歳になる娘は、インターナショナルスクールの幼稚園に通っているため、授業は英語で、もちろん習う文字はアルファベットばかり。でも言葉に関心が強い性格のためか、家ではひらがなやカタカナの練習も自分でやりたがるようになりました。私からやりなさい、ということはありませんが、気づくと勝手に文字の練習をしていて、幼児向けドリルがすぐに終わってしまいます。でもあまり放任しすぎたためか、書き順がめちゃくちゃ。やっぱり少しは一緒に見てあげないと変な癖がついてしまいそうです。

時々、パパも娘に絵本を読んであげたり、文字の練習を見てあげています。が、パパの日本語もネイティブではないので、時々二人が日本語に苦戦しているらしき会話を聞いていて、私はクスッと笑ってしまいます。娘はたまにはミャンマー語の文字も練習したがるようになってきました。こちらはパパに丸投げで、私には手伝える余地はありません。

娘の日本語練習をみているうちに、久しぶりに子供の言語獲得について考え始めました。実はおよそ20年前、私が大学で最初に学んだのは言語学だったのです。結局大学院からは芸術学に行き、言語学とは縁がなくなっていた私ですが、人間と言葉の間の不思議な関係について考えることが、結構面白かったのを思い出しました。

そこで、娘と主人への日本語教育にも役立つかもとの、という思いから、日本語教育について学びなおして、外国人に日本語を教えるボランティアを始めることにしました。将来、ミャンマーやどこかほかの国に主人が転勤しても役立つかもしれないという考えもあります。私自身、実はこれまでに10か国語ほど手を出した経験がありますし、海外に住んだ経験もあります。ほとんどの言葉は身についていませんが、文法体系を知っていたり、様々な種類の教授法を受けた経験があることは大いに参考になります。そして何より、学習者の気持ちがよくわかるという点だけには自信があります。

昨年来、近隣の市の国際交流協会で実施している日本語講師向けのセミナーに参加したり、日本語教育者用の本を買い込んで、目下勉強の日々です。現在、地元のボランティアに所属して、初級者グループレッスンや、個人指導を週3日ほど行っています。気が付くと、毎日日本語のことばかり考えるようになりました。

不思議なもので、日本語の文法の身に着け方には3種類あります。一つは私たちネイティブが国語の時間に習った国文法。本格的に勉強するのは中学か高校生のころで、それまで何気なく話していた日本語に、こんな規則があったのか、と驚いたものです。そして、外国人が外国語として学ぶ日本語文法。これは、品詞の分け方や動詞、形容詞の変化規則など、いろいろな点でネイティブ向けの文法学習とは異なるアイディアで教えるのが主流です。
そして3つ目は、幼児が自然におぼえる日本語。誰に文法を教わることもなく勝手に身につきます。

幼児の日本語の身に着け方は、まさに今が観察のチャンス!気づいたことを忘れないためにも、これからここに書いていけたらと思っています。


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